価値あるものの所在 - 少年時代の心象風景 -2020/06/16 (火)

山奥の農村の社会福祉施設という環境下、一緒に生活する人生の大先輩との会話といえば、必然的に農業に関する昔話が多くなります。大体が昔の農家の暮らしを懐かしむ話ですが、こんな話をする時は、皆さん本当に目が輝いて見えるのです。

 

米作りの風景も昔と今では全く様変わりをしてしまいました。昔といっても私の少年時代の頃のことですが、毎日のように梅雨の雨が続くこの頃が田植えの盛りで、当時は結構寒い日も多く、綿入りのセナコ(チャンチャンコ)を着て田んぼに入り、五月女さん達と並んで田植えをしたり、塗りたての土の感触を味わいながら裸足で畦を走り回ったり、大勢の人達と談笑しながらお握りをほおばったりしたのを思い出します。

「人の一生は、少年時代にどのような経験をするかで決まる。」という話をよく耳にしますが、私もこの時期を迎えると、懐かしい田植えの風景とともに、確かにその後の私の人生を決定づけたあの少年時代の心象風景が一つひとつ鮮やかに蘇ってきます。

輝く水辺の生命

少年時代、私の住む山村の小さな集落の中心には、十数戸の農家が耕作する水田が広がり、その中を幅1メートルほどの小川が南北に流れていた。所々が粗雑な石積みや木の棒杭などで修復されてはいるものの、自然の流れのままの清流は驚くほど豊かな生命の営みに満ちていて、水が温み生きものの活動が活発になると、そこは少年たちの日常になくてはならない大切な遊び場になった。少年たちは、毎日のように裸足で川に入り手箕(てみ:竹籤製の塵取り)で水中の生きものを掬い捕ったり、川面に釣り糸を垂らしたりして様々な生命との遭遇に歓喜した。

豊かだった水辺の生きものたち

少年たちが狙う究極の獲物は、鱗が黄金色に輝く幻の大鮒「金ブナ」だった。水中に食み出した葦の根の下や石積みの隙間にできたヤナ(魚など水中生物の棲み家となる箇所)に手箕を差し入れて揺すっては水を掬い上げた。少年の手箕技では大物の鮒など掬えるはずもなかったが、それでも竹の編み間を水が透け落ちた後には、小型の川魚や水生昆虫など無数の生きものたちが飛跳し、蠢動する光景が目の前に現れた。掬い上げる度に、小鮒、メダカ、川エビ、ゴリンチョ(カワヨシノボリ)、ゴッパツ(ドンコ)、ハヤ、ニガツコ(数種類の川タナゴ)、などが飛び跳ね、ドジョウ、オタマジャクシ、ヤゴ、タガメ、タイコウチ、ミズスマシ、ゲンゴロウ、マツモムシ、イモリなどが蠢いた。私は、木漏れ日のようにキラキラと輝く生きものたちの不可思議な動きや美しく精緻なその姿形への、そして此の村の小さな水辺の水溜まりがこんなにも多くの生命を育んでいることへの言いようのない感動でしばしば絶句したものだった。そして、これらの生きものたちをバケツ一杯になるまで捕獲すると、まるで宝物を秘密の場所に隠すようにヤナの近くの川面に放流した。

そんな水辺の遊び場から、5、6百メートル上流には、山の湧水を集めた5百坪ほどのため池があり、清冽な湧水を青々と湛えたこの池も、魚釣りや遊泳など少年たちの格好の遊び場となった。池を溢れた水は石組みの除堰(よけひ)を越え落ちて小さな流れとなり私たちの小川の一つの源流を形成した。ここもまた生きものの宝庫であり、少年たちは池の魚釣り競争で鯉、鮒、シオカラ(鮒の変種?)、ニガツコ、ゴッパツ、イモリなどを釣り上げては一喜一憂した。除堰の先端には、越え出る水に逆らっていつも数匹のゴリンチョがひょうきんな顔で張り付き、傍の石組みの間からは沢蟹たちがゴソゴソと動き出て、流れ落ちる水流越しに私たちの行動を窺っていた。そこは、大人たちの知らない少年と無数の生きものたちだけの濃密で豊かな日常の生活空間になった。

除堰の下から源流となって小川に連なる小さな溝の白い砂泥底を手で探ると、ニガツコの産卵場所としてなくてはならないタジッカ(石貝)や足の親指ほどもある大きなヤマトシジミがたくさん捕れた。私は、病気がちの祖母に薬膳にと頼まれてしばしばシジミ捕りに行った。シジミ汁を飲みながら「美味しいのう。よう捕ってきてくれたのう。」と嬉しそうに労う祖母の言葉を、私は、砂泥の奥深くにヤモトシジミを探り当てた時の手の感触を思い出しながら誇らしげに聞いていた。

田植えに向けた田ごしらえの時期になると、小川はあちこちで堰かれ、満々と水を湛えた。川面に釣り糸を垂らすと、銀鮒、ニガツコ、シオカラ、ハヤ、アカマチ(赤い婚姻色の入ったハヤ)などが面白いように釣れ、少年たちを驚喜させた。金ブナを釣ったという話は誰からも聞くことはなかったが、そこには確かに、水辺の躍動する無数の生命の輝きに心を奪われていく少年たちの姿があった。

 

「金ブナ」に出会った日

小川からは、一つひとつの水田へ水を引き入れるため幅4、50センチ程の用水溝が掘り回らされ、田植えが終わり青々としてきた水田へは、水で満たされたその自然のままの溝を伝って様々な川魚が遡上してきた。少年たちにとって、この時期のこうした溝は、思いがけない大物の魚が捕れる格好の漁場となった。

その日は、夕刻になって長雨がようやく上がり、雨雲が切れ始めた西の空から紅い夕陽が差し込んできていた。私は、その日も大物の魚を狙い手箕を携えて我が家の下の田んぼに向かった。魚の気配を探して溝の水面に目を凝らしながらゆっくりと歩を進めると、大小のトノサマガエルが次々に水中へ飛び込んだ。聞き慣れたその音を遮るような異様な水音を感じて目を遣ったのは、溝が板で堰がれた辺りの、畦草までが没するほど水が湛えられた場所だった。水面が異様に波立っている。「金ブナだ。」私は心で叫んだ。そこには何百、いや、何千匹の数センチほどの大きさの小鮒の大群が黄金色の鱗を輝かせてバシャバシャとひしめき合い、水面から溢れ出るように飛び跳ねていたのである。水田で生まれ育った鮒の稚魚たちが群れとなって小川へ帰ろうとする光景に違いなかった。黄金色の鱗に見えたのは辺りに差し込む夕陽のせいだと解ったが、私は、またしても言い尽くせない興奮と感動に襲われ金縛りにあったような一人の少年と化し、明らかに黄金色に染まって波立つその溝の光景を呆然と眺めていた。どれほどの時間が経ったろうか。あたりに夕闇が迫り、夕飯へと呼び戻す母の声で我に返るまで、その場に独り立ち尽くしていたのだった。

帰りの道すがら、私は、澄んだ空気と水、山川草木が醸し出す芳しい季節の色と匂いと音、そして無数の生命の躍動に満ち溢れる緑深き此の村への限りない愛おしさが胸の奥底からこみ上げてくるのを感じていた。当然ながら、その日は興奮のあまりなかなか寝付けなかったが、他の少年たちがあの小鮒の群れを掬い捕ってしまうのを恐れて、私はその日の出来事を誰にも話すことはなかった。

この出来事も一つの契機となり、まるで宝物を生み出すかのような恵み豊かな此の村の自然が、次第に私の無上の誇りとなっていったように思う。

 

中国縦貫自動車道建設計画

中学生の頃の夕飯の席でのことだった。私は、父が誰に言うともなく「良うなる。」「楽んなる。」と言いながら語るその話の内容を知って、我が耳を疑った。それは次のようなものだった。「此の村を東西に横切る高速道路の建設が決まった」こと、「建設用地として此の村の多くの田畑や山林が買収される」こと、「付帯工事として私たちの小川と用水溝がコンクリートに改良される」こと、「コンクリート化によって小川の修繕や用水路の溝上げなどの重労働が不要となる」ことなどであった。

この話は既に決まったことか否か、此の村のどこがどうなるのかを、矢継ぎ早に何度も父に確認する自分がいた。父の話の一言ひとことが、途方もなく残酷で陰惨な刑罰の宣告のように感じられた。言うまでもなく、それは私にとってかけがえのない価値あるものの消滅を意味していた。

通学路の途中に此の村を見渡せる場所があり、私は自転車でそこを通りかかる度に、工事によって消え去るであろう場所を暫し眺めていたものだった。走り回って遊んだ野山に響き渡る歓声の記憶、かくれんぼの途中に隠れた草むらで味わった香しい匂い、炭焼き山の小高い頂上から見た此の村の美しい風景、むせかえる初夏の野山の匂いと春蝉の声の中でそこはかとなく夢想した子供の頃、蛍を追いかけて馳駆した小川の辺の草むす野道の感触、雑木林の中で見つけた笹百合の清楚な容姿と甘くたおやかな匂い、そしてあの輝く水辺の生きものたちとの生命の交流。やがて消えゆくあの日あの場所での忘れ難き思い出が一齣ひとこまありありと蘇ってきた。悲しみとも、寂しさとも、怒りとも知れないやり場のない気持ちがこみ上げてきて、「あそこが消えてなくなる。」「あれもこれもできんようになくなるんじゃ。」「頼むからやめてくれ。」と心で呟くと、涙が止めどもなく溢れ出し、ペダルを漕ぐ私の膝をしとどに濡らした。

 

桃源郷への思い

そんな日が暫く続いたが、私がいつからか抱き始めていた「自分は、此の村を離れることはできない」という決心が揺らぐことはなかった。

それは、無数の尊い生命を育み、宝物を次々と生み出し、純粋で無垢な少年の心を悠然と感動の高みへと率いていってくれる桃源郷のような此の村で生きることそのことが、血となり骨肉となり、目に見えない感性を培い、思想を養い、私という人格の礎をかたちづくる源泉となっていることに疑いようはなく、此の村を出て行ったとき、私は、即私でなくなり、実体のない空虚な空き部屋のように「リセット」されるだろうという無意識の確信のようなものがあったからかもしれない。

中国縦貫自動車道の実際の工事は、昭和50年頃から始まったのですが、不思議なことに、私にはこの工事の風景の記憶が全くないのです。当時私は、既に大学を卒業し三次市役所に就職して自宅から通勤していましたから、故郷の山川がブルドーザーによって切り崩され、埋め立てられ、コンクリートの塊になっていく姿を目にしないということはあり得ないわけですが、全く憶えていないのです。当時私は、休日にはしょっちゅう家を空け広島市内で仲間とのサークル活動や居合道の練習などに執心していたからかもしれませんが、実に不可思議なことです。

人は、少年時代から思春期を経て大人になる過程において、誰もが人生のハードルともいうべき重要な経験を積み重ね、自然の摂理、世の中の真理、人の道徳など大人の人間としての「常識」を身に着けてしていくものですが、私の場合も、その過程の中で、大人の世界の「掟」のようなものを体得したことの代償として、上書きされて消去されるようにかけがえのない何かを失った。言い換えれば、真に価値あるものへの感性が摩滅してしまったというべきなのでしょうか。記憶がないということは、きっと、私の心の内奥で、大人になるための一つひとつのハードルを越えようとする得体の知れない強大なエネルギーのようなものが、価値あるものの死という現実から、私自身を遠ざけていたのかもしれません。

まもなく古希を迎えんとする私は、今も此の村で生き続けています。かつて、秋には実った稲穂で隅々まで黄金色に染まっていた此の村も、時流には逆らえず、多くの田畑は耕作者もなく荒れ果ててしまいました。清冽な山の湧水を湛えていたあの池は高速道の排水池と化し、黄色く濁った水と捨てられたゴミを相変わらず湛え続けています。除堰も源流の溝も私たちの小川もすべて冷たいコンクリートの幾何学的で無機質な構造物と化し、ゴリンチョも沢蟹もシジミもタジッカもニガツコもゴッパツも・・・・生きものの姿は皆どこかへ消えてしまいました。そこには生命の気配のない寂寞とした抜け殻のような、寒々とした光景が広がるのみです。

あの小川の清らかな流れも、無数の生きものたちの生命の輝きも、緑豊かな野山に響き渡る少年たちの歓声も、今や遠い夢の中にしか所在せず、今私は、村の中心にまるで消え去った生きものたちの巨大な墓標のように横たわる中国縦貫自動車道を、ひとりの墓守となって見守りながら生き続けています。もはや二度と味わうことのできない、年齢を重ねるごとに霞んでいくあの少年時代の記憶を辿るとき、私は今でも、胸の奥底からこみ上げてくる涙を禁じることができないのです。

 

長々と駄文を並べてしまいましたが、一生を決めた少年時代の経験というものは、人生の大先輩どなたもが少なからずお持ちのようで、簡単に口には出されませんが、それに触れた話をする時は、皆さんの目は本当に輝いていて、一様にそのことを誇りに生きておられるというか、ご自分の人生を意味づける重要な要素にしておられるなと感じます。もちろん「人生に意味などない。」という方もいらっしゃいますが・・・・。

私たちは、「その人が抱える人生に寄り添う支援」を基本方針に掲げて活動していますが、それはきっと、その人が目を輝かせて表現しようとする価値あるものの所在にたどり着こうとする、重要であり、だからこそ責任のある取り組みに違いありません。

(令和2・6・16 増岡孝紀)