沈黙の曠野 ― 沖縄戦遺骨収集記 ―2020/08/08 (土)

今年も、まもなく8月15日がやってきます。

この日は、多くの地域で先祖供養の重要な歳時である盂蘭盆会の中日であるとともに、先の大戦における戦没者の慰霊の日としても国民の意識の中にしっかりと定着してきたのではないでしょうか。

全国戦没者追悼式

この「戦没者の慰霊」に関する国の行政上の担当部門は、ご承知のとおり厚生労働省となっています。このことは、ある意味「慰霊という行為は、亡き人やそのご遺族に対する福祉の一環である」との考え方に立脚しているとも言え、それはそれで、真に意義深く思料された判断であり、私は全く納得してしまうのです。いずれにせよ、8月15日は、福祉の世界に生きる私たちにとって、「戦没者の慰霊」の意味について改めて考えてみる大切な日だと思うのです。

私は、8月15日を迎えると、毎年喜怒哀楽が複雑に交錯した筆舌に尽くし難い感情に襲われます。昭和20年のこの日、未曽有の凄惨な戦争に敗れたのを境に、法制度から国民の価値観まで、社会構造が百八十度転換したわけですから、ある意味当然のことかもしれません。

その激動の戦前・戦中・戦後という昭和史をめぐるイシュー(論争点)に関しては、勿論私にも自分自身の思い入れや思想における立ち位置が明確であるものも少なくないわけですが、それを正確に表現し尽くすことは、百万言を費やしても困難であろうと考えており、このような稿でそれを試そうという気は毛頭ありません。しかし私は、「戦後75年」を経ても未だに生々しい戦争の痕跡の残るある問題に思いが及ぶとき、そんな決心もたちまち雲散霧消してしまうのです。

それは、先の大戦での戦没者(軍人・軍属及び一般邦人の死者)数310万人の内、海外(沖縄、硫黄島を含む)における戦没者110万人の御遺骨が未だに収集されないまま放置され御遺族のもとに帰っていない、つまり「未帰還戦没者」であり、しかもその内、海没及び当該国の事情等により帰還が不可能なものを除いても、約60万柱もの御遺骨が帰還可能であるにもかかわらず放置されたままになっているという現実です。このことは、そうした「未帰還戦没者」の御遺族にとって紛れもなく戦争は未だ終わっていないことを意味しており、この未帰還の御遺骨の存在は、私たちに対して明らかに「戦後」という時代の概念そのものの共有を拒否し続けているのです。戦争を知らない「戦後」生まれの私たちに対して・・・。

私が社会人になりたての若い頃のことですが、「未帰還戦没者」の実態を知り、御遺骨の故郷への帰還に具体的に関わることで、今も疼く戦争の傷跡に直接触れ、そして、御遺骨とともに歴史を掘り起こすことなしに「戦後」を語る資格はない。そういう思いを強くしていた私は、昭和51年26歳の時、学生時代の先輩 Ⅰ 氏の誘いにより、沖縄と本土の学生を主体とする「日本青年学生沖縄県戦没者遺骨収集団」(以下「沖戦遺」)による沖縄本島遺骨収集事業(第一次及び第二次)に参加することになります。そして、昭和51年3月、先輩I氏、後輩N君とともに沖縄那覇空港に降り立ち、沖縄本島最南端糸満市の真壁公民館を合宿所とする沖戦遺の活動に合流することになったのです。

そこには、想像をはるかに超える壮絶な現実が待ち受けており、私たちは、沖縄戦という凄まじい歴史の真実を垣間見ることになるのです。

 

 嘉手納米空軍基地

    沖戦遺の合宿所(真壁公民館)に行く前に立ち寄った嘉手納米空軍基地にて。絶え間なく離発着を繰り返すジェット戦闘機「ファントム」。基地の島沖縄には、無数の御遺骨が未だに野晒しのままになっているという。複雑な沖縄の現実を垣間見る。

 

 沖縄戦南部戦線

「摩文仁」という地名を知る人は多い。沖縄本島の最南端に位置する小高い丘を中心とした一帯である。沖縄本島に上陸した米軍と那覇から本島南部へと撤退する日本軍との住民を巻き込んだ血みどろの激戦「南部戦線」は、この地において終焉した。昭和20年6月23日、沖縄第三十二軍司令長官牛島満中将、長勇参謀長は、摩文仁「八十九高地」頂上付近にある司令部壕の中で自決。日本軍の組織的戦闘は終結したのである。犠牲者は、20万人とも25万人とも言われる。

沖戦遺による沖縄本島遺骨収集事業は、第一次(昭和51年3月)と第二次(昭和52年3月)に糸満市南部「沖縄戦跡国定公園」の陸域及び海域一帯で実施された。

 

 沖縄本島-沈黙の曠野にて

 

U君(沖国大)と山野での発掘作業

雑木林の中の小さな窪みを発掘する。

ガマや壕などと違い、こうした山野での御遺骨の発見や収集は困難を極める。既に他の隊によって捜索が終了しているこの場所で大腿骨の破片を発見したが、これは全くの偶然という他はない。林の中を移動中に、ふと思い立って足元の窪みを熊手で引っ掻くと、そこから小石とほとんど見分けのつかないような骨片が出てきたのである。まるで「大地から湧き出す」ように御遺骨が現れる。野晒しの御遺骨を完全に収集することはほとんど不可能に近いと感じられ、言いようのない無力感に襲われる。

しかし、我々は拾わなければならない。それは、「戦後」という時代の安寧に生を営む者の責務である。

 

人一人がやっと入れるほどの小さなガマ壕を発掘するN氏(東京)、N君(沖国大)。

火炎放射器の炎で内部が真っ黒に焼け焦げたこの壕から、なんと5柱もの累々たる御遺骨が発見された。その時のことを話すN氏(東京)らの様子は次のようなものだったらしい。

N氏(東京)「信じてもらえないかもしれないけど、俺、あのガマを見つけた時、もの凄く頭が痛くなったんだよね。」

別の隊員「ああNさんもですか。僕も以前そういうことありましたね。骨を見つけた時、いつもなんか変なこと起きるんですよね。」

その他の隊員「・・・・・・・。」

多くの隊員たちが、このような奇妙な体験をした。沖縄戦南部戦線の戦場となった沈黙の曠野の現実である。

 

収骨作業を行った雑木林の近くの農家に水をもらいに行く。こうした農家のすぐ裏の林の中にも戦没者の無数の御遺骨が散乱する。戦後30余年を経た沖縄の今の現実である。

山野で収集した無数の御遺骨。このような情景に対峙するとき、私たちは、喜怒哀楽の感情を超えた言いようのない虚無感に襲われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藪の中に蔦の絡まる御遺骨を発見。茫然と見つめる。言い尽くせないものが私たちの心を押し潰す。それは悲しみでも、怒りでも、慨きでも、無論全身を貫くあの感動の戦慄でもない。それは「空白感」「虚しさ」と言ったほうが適切な表現かもしれない。

この、恐らくは兵士の最期の姿が脳裏を駆け巡る。その一瞬、この兵士にはどんな思いが走ったのだろうか。愛するものの忘れ難き面影か、あるいは米兵に対する震えるような敵愾心だったのか。否、死に至る激痛の感覚だけだったのかもしれない。ひょっとしたら歴史の定めのようなものに対する怨念だったのか。・・・・それとも・・・・・・。わからない。所詮私たちにはわからないのだ。いくら考えても、あの戦争の真実など私たちにはわかるはずもないのだ。何故そのような歴然としたことに思いが至らなかったのか。

苔むす御遺骨は、冷たくあまりに軽い。そして、全身を締め付けるようなその恐ろしい沈黙。それは、私たちにとって無言の訓誡以外の何ものでもないように思われた。

戦争を知らない私たちにとって、その真実は重すぎる。沖縄の曠野を彷徨する英霊の泣き叫ぶような声なき声は、私たちにはあまりにも大きすぎる。何も思いめぐらさないほうが良い。漫然とした思い入れや妄想で失われた過去を裁断してはならない。ふと我に返り、まるで動かぬ小石のように目の前に散乱する御遺骨を直視する。またしても異様な空白感に襲われる。私たちは、すでに虚脱してしまっていた。

一体、今の私たちは何なのであろう。これは恐らく、「戦後」という満ち足りた安寧の中で惰眠を貪ってきた人間たちが、紛れもない歴史の真実を垣間見て、そのあまりの凄まじさに自壊していく姿なのだろう。とすれば、私たちには彷徨える魂を慰める資格などありはしないのではないか・・・・・・。

まるで、澱んだ沼のような戦後の太平に生きる私たち。散華せし彼の人たちが信じて疑わなかった「後世」で泡のような浮薄な生き様を晒す私たち。そんな私たちにできること。それが魂の慰めになるかどうかはしれないが、今私たちにできること。それは、野晒しの御遺骨を正視すること。そして、その一つひとつを掘り起こし、只々拾い集めること。それだけである。

かくして、私たちは線香を立て、静かに手を合わせ、思い直したように収骨袋に手をかけるのである。煙草をふかしながら岩を動かす者。流行歌を口ずさみながら熊手を振るう者。ひょうきんに冗談を飛ばしながら御遺骨を集める者。そこには、何か虚ろで奇妙な楽しささえ漂っていた。

 

泥まみれになって作業に没頭する隊員たち

水の溜まる壕内をサーチライトで探索するI先輩。眼前に累々と横たわる「水漬く屍」。足元の土の頼りない柔らかさ。火炎放射の跡生々しい岩肌とたちこめる沈鬱な臭気。彷徨える英霊たちの30余年間の悲しみの痕跡だ。

 

激しく破壊された壕内での作業。沖縄戦では、凄惨な地上戦により4分の1にあたる県民が犠牲となった。

他隊によって捜索済みと思われる壕内を、蝋燭を灯して発掘。氏名判明遺留品(金属製箸・三角定規2枚・飯ごう)を発見する。ここで、他隊によって御遺骨が発見されているとしたら、氏名判明御遺骨として帰還の可能性がある。

収集せし御遺骨と遺留品の数々。遺留品は、軍刀、銃剣、軍靴、飯ごう、水筒、鉄兜、印鑑、ガスマスク、箸、石鹸箱、薬品瓶、硬貨、万年筆、櫛、三角定規等々である。その他、銃弾、手榴弾が多く出土する。

氏名が確認できる遺留品が数多く収集されたが、ほとんどの収集場所には複数の人数分の御遺骨が散乱するため、「氏名判明御遺骨」の特定は困難である。

 

壕の中に捨てられた夥しいゴミの中を探索する隊員。未だに、このようなゴミの下にも御遺骨が放置されたままになっているのだ。戦後30余年、世界第2位の経済大国となってひた走る日本の、辛く悲しい負の現実だ。

自然のガマ壕が多数散在する「沖縄戦跡国定公園」海域一帯

 

 連   帯

この日、沖戦遺の遺骨収集作業の応援に駆けつけてくれた陸上自衛隊第1混成団302中隊のトラックの前で、装備を整え出発前の隊員たち。

この服装、沖縄には、米軍の払い下げ物資を扱っている店が多い。多くの隊員がこの種の店舗で軍服などを買って着込み作業に向かうのである。彼らの多くが厳つい面構えだが、見かけによらず、皆一様に驚くほど繊細で純真な心を持っている。

隊員たちは、合宿所に設けられた祭壇に祈りを捧げ作業に出発する。彼らは、今日もまた、野ざらしの御遺骨を目の前にして重く深い魂の体験をするのである。

この日、沖戦遺に合流して収骨作業に当たった「英霊にこたえる会」のI氏他の隊員と収集された御遺骨。

幅わずか30センチほどの「たこつぼ」塹壕の奥深くから1柱の御遺骨が発見された。軍刀などが一緒に見つかったことから将校のものと思われる。発見時、この「たこつぼ」は、土砂に完全に埋もれており、間違いなく見落とすケースだったという。発見者の同会O氏は、「なぜ御遺骨の存在が分かったのか」との他の隊員からの質問に対し「あるという確信があった。」と答えたという。単なる偶然だとしても、不可思議な出来事が多すぎる。

同会の隊長I氏は「認識票が出ると御遺族のもとへ御遺骨を届けることができる。」と3日間をかけてこの場所を何度も何度も掘り返した。この行為は、結局徒労に終わったが、I氏のこの執念には頭を下げるしかない。かつて、I氏もこの沖縄で戦い、多くの戦友を失った。

 

 祈  り

収集せし御遺骨の前で合掌し、霊の安からんことを祈る。しかし、亡き人たちの心は私たちの前には既になく、この沈黙せし無表情の御遺骨のはるか彼方の超然とした高みにあるように思われ、私たちは只々合掌し拝伏するのみである。隊員たちの心に去来するものは何か。それは等しく「こうして祈らせていただくことができた。」という喜びにも似た感情であろう。

滔々とした読経の声と香の匂いがもつれ合うように山野に消えていった。

 

 

 

   合宿所 

一日の作業を終え、真壁公民館の合宿所に戻ると、私たちには美味しい夕食が待っている。その日の「食当班」と合宿所で留守番をしていた「日直」とが腕によりをかけて作るのである。隊員達は見かけ皆磊落で不精な「野郎」ばかりだと思うのだが、どうしてこんなに美味い料理を作るのか全く不思議だ。

夕食の後、交代で糸満市まで入浴に出かける。夕食と夜のミーティングまでのこの1~2時間が隊員たちにとって最もくつろげる時間帯だ。入浴後、買い物をしたり、喫茶店に入ったり、思い思いの自由な時を過ごすのである。

そして、午後9時から遅い日で夜中まで続くミーティング。各班が克明な作業報告を行い、記録長がこれを記録し正式な作業記録となる。収集された御遺骨の種類とその数、収集場所、周りの状況、遺留品など、一日の作業中の出来事を詳細な報告資料として残すのである。

いろいろな感想や意見を述べる者、几帳面にノートに記録する者、放心したように報告に聞き入る者、早くも夢の世界に入っている者。一日の辛い作業を終えた隊員たちの顔は、どれもこれも疲れに歪んで見えた。

合宿所に遊びに来た近所の子供と

起床は6時。直ちに早朝体操をして、近くの三和中学校まで駆け足で洗面に出かける。赫奕と昇る朝日を浴びて真壁の村をひた走る。洗面の後の爽快さはこの上ない。

 

 摩文仁仮納骨所

摩文仁仮納骨所祭壇

沖縄戦終焉の地摩文仁の丘を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にある平和祈念公園の一角に「仮納骨所」がある。収集された御遺骨は、一時ここに安置される。ここには、沖戦遺によって収集された御遺骨だけでなく、日蓮宗や遺族会などの遺骨収集団によって収集された御遺骨が一緒に納められている。

何日目の作業を終えて、納骨を済ませた時であったろうか。私たちに同行し、祭壇での祈りを終えた英霊にこたえる会のI氏は、戦没者の遺族等で構成される他隊の手によって安置された納骨箱に「〇〇遺骨収集団 3月〇〇日収骨 6個口」と記されているのに気付いた。その時、I氏の顔色は怒りとも慨きとも言えないものに変じ、次の瞬間、卒然として筆を執り、その後にこう書き加えたのである。「六個口トハ、六柱ノコトナリヤ」。そして、吶々と吐くように言ったのである。「遺族の収集団でさえこうなのだ。何もわかってはいない。寂しいではないか。何のための遺骨収集なのか。」

摩文仁「八十九高地」には、慰霊碑が多く建立されている。時の移り変わりとともに、そこは、戦跡から公園へと次第にその姿を変えていっているようだ。今では、本土からの観光客が多くここを訪れる。今回の収集事業では、今や「観光名所」となった第三十二軍司令部壕や土産物店のすぐ裏の壕内から御遺骨が発見された。それは、捨てられた空き缶やフィルムの空き箱などのゴミの下に寂しく埋もれていたという。やるせない感情とともに、一首の「防人の歌」が脳裏をよぎった。

ますらをの  かなしきいのち 積み重ね 積み重ね守る やまとしまねを

仮納骨所の近くに建設中の戦跡公園には、数組のハネムーナーのカラフルな服装が夕陽に美しく映えていた。その姿は、希望の明日に向かってひときわ輝いているように思われた。

 

 帰 還

「氏名判明御遺骨」が発見された壕に赴く御遺族。ご本人たちにとっての戦争が終結した瞬間である。

今回の沖戦遺の事業において、期間中に収集された夥しい数の御遺骨は、散華せし戦没者の何千人、否ひょっとしたら何万人につながるものかもしれない。激烈を極めた沖縄戦の戦場では、御遺骨の散乱の実態は、同一の場所に複数の人数分に及ぶことがほとんどであるため、頭蓋骨や喉仏の数などから収骨した御遺骨の最低柱数を特定することはできても、その場所で実際に亡くなった何人の方の御遺骨なのかを特定することはほとんど不可能に近いからだ。

そんな中、「氏名判明御遺骨」として特定される発見が極稀にあるのだ。認識票など個人を特定できる遺留品が一緒に発見されることと、ほぼ全ての御遺骨が同一人のものと判断できる場合だ。

今回の沖戦遺の事業においても、その「氏名判明御遺骨」1柱が収集された。沖戦遺では、様々な機関を通して御遺族の存在を確認し、御遺骨の引き渡しと発見場所への案内ができたのである。遺骨収集団としての冥利に尽きる出来事であった。

発見された壕の中に入られた御遺族は、黒焦げになり、暗く沈鬱な臭気の漂うその小さな空間の中に、在りし日の彼の人の面影を見られたのであろうか、辺りを憚らず泣き崩れられたそうである。

以上、私が、沖戦遺の第一次及び第二次沖縄本島遺骨収集事業に参加したときの記録(記憶を含む)を、ほんの一部ですが紹介させていただきました。

国は、平成28年4月「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」を施行し、その中で「戦没者の遺骨収集の推進に関する施策を総合的に策定し、確実に実施する」ことを国の責務であるとしています。そして、平成28年度から平成36年度(令和6年度)までを施策の集中実施期間と定めています。

一説によると、期限を切って集中実施期間を定めたのは、令和6年といえば戦後80年ということになり、その頃までには多くの御遺骨が風化して土に還ってしまい、事実上収集が不可能になるからだと言われています。その国を挙げての遺骨収集事業は、その規模も年々先細りとなるばかりか、間違えて外国人の遺骨を収容してしまう「遺骨取り違え事件」も発生するなど、実にゆゆしき事態に陥っているのです。

そうした戦没者遺骨収集事業のやるせない現実を伝える報道を見聞きするとき、私は、あの沈黙の曠野「沖縄」で体験した事実の記憶を、言いようのない無力感とともに思い出してしまいます。

そして、戦没者の慰霊の日としての8月15日を迎えると、その無力感は、戦後という時代の流れに対する複雑に交錯する感情の中で、年を経るごとに、加齢に伴う心身の疲労とともに一層際立って私を支配してしまうのです。

(令和2・8・8 増岡孝紀)